2017年 06月 07日
ほうれいせんと、 |
現代詩手帖に「蜜柑」という詩が載りまして、揚々としている。同時にソワソワとしているのも事実だわと、だけどこのソワソワってどんなソワソワなのかよくわからない、
自分が自分であるためによく唱えることとしての、不幸と幸せの均衡性、をいま、勝手に作り出そうとしているのではないか。つまり、いいことがあると悪いことがあるのは当然で、「このあとの不幸」にゾッとするまえに、心構えはしておいたほうがいいよね、という暗唱。だけど内実伴ってない感じ。口ばかり、ソワソワするなぁ、みたいな具合になってしまう。
まぁでも、不幸な気持ちだなんて、これから先にはイヤでもなるのだし、なれないときはなれないで、それでええんとちゃうかしらと、かまえず、気楽にいきましょうやと、さぁ仕事にいくかと立ち上がり、顔をあらって鏡をのぞいたら、ほうれい線が濃く浮かび上がっている、
こんなに濃くなっているのははじめてで、昨日まではなんともなかったのにと、老けてみえる、我が顔面の、もの暗さ。うら寂しさ。老いをいよいよ感じる。不幸の分銅の、あたらしいかたち、
おいていく、初夏。老いを感じることは増えてきていて、たとえば、マクドナルドがほんとうにキツい。わたしはもともと、死ぬほど食うのが好きな人間で、ここにも書いてますけれど、ごはん4杯とかガンガンいけます。特に白めしが好きで、たとえば、ハンバーグの肉片、大さじ1程度だとしても、お茶碗の1杯の白めしを平らげてしまう。
炭水化物の如何は問わず、なんせ食べるのが好きだ、というのが自分のひとつのアイデンティティだと信じているのだし、あたらしい職場でもそういった話をして驚かれたりして、アイデンティティであるがゆえに、話題にしたくらいなのですから、まごうことなきアイデンティティだと思うのですが、
まずマクドの爆食いができなくなったということが老い。わたしはマクドが本当に好き、あまりファストフードは食べない人間なのですが、マクドは別格で、いくと、毎回バリューセットというセット群のなかから、フィレオフィッシュという白身魚を衣つけてあげたものとタルタルソースの挟まっているハンバーガーのセットをポテトとコーラで頂きます。それが一人前の量ですから、何が爆かと思われるかもですが、この早さスピード、というのが、爆たるゆえんで、ものの3分で平らげてしまうし、かつあまりある空腹。食もつのための小部屋。というわけで、ポテトLやアイスを追加して食べてしまう。一人前たいらげたあとにすぐさまレジに向かい、ポテトやその他オプションを頼んでしまう、頼み込んでしまう。そして費える。この爆。ものの10分でこうですから、爆たるゆえんです。
ですがこの前、ふとしたタイミングでマクドにいったところ、もうスピードが時計の針に追い付いておらず、コーラで腹もふくれまくり、一食分平らげるのがやっとだった。野菜中心の食生活にしているから、というのもあるかもしれない。しかも今までみんなが言う割に同意しつつ、そんなんほんまにあるんかよと、よくわからなかった感覚である「マクドは脂っこい」「胃がもたれる」という感覚を実感し、老いだ。ひとりごちて、塩まみれの指をねぶる、
焼肉を食べたときも、ぜんぜん食べられなかった。意地でも食わねば、おぉ、我がアイデンティティよと、死んだような顔をして肉を食っていたところ、先輩が、そんな顔はじめて、大丈夫?と心配してくださり、うわごとのように、口部をふるわせるしかなかったという始末、
柳原良平の回顧展をみに、尼崎まで。トリスおじさんはわたしの憧れのおじさんのうちのひとりなのですが、柳原さんも、まさにあこがれのオジサンそのものだった。おおらかで知的で、オチャメさん。スーツにリュック背負ってそうなところがポイント高い。
一番よかったのが2000年初頭の「ハワイへいこう!」という絵で、巨大なキャンバスに描かれた、油絵なのですが、巨大な油絵なのに、いつものタッチでトリスおじさんがアロハシャツと帽子をかぶって、年齢相応の落ち着きはあるのだけれど、それでも楽しさを湛えていて、心底わらった。大げさであるということは本当に有意義だ。あと商船会社のえらいひとからもらった表彰状に「船キチガイと自ら認め」船業界に貢献したことをたたえます、ということが書かれており、またその文字も達筆とはお世辞にもいえない、よろっとした、だらしない、だけど図太そうな、男子、って感じの文字で、ああこうも、いくつになっても男子は男子で、草原を駆けずり回るのかと、生傷のたえない、ふたりの少年が文字のうえを青くさく走っていく。
わたしはこれといって趣味のようなものがなく、しいて言うなら、美術や、音楽、文学を楽しむということで、どちらにしろ、ぜんぶひとりで成立してしまう。とはいえ、どんなにしずかなものでも、受け取ってしまうと、体にとっては外部からの「負担」ですから、アウトプットを必要としてしまう、
老いからか、「負担」に耐えかね、スマホをとりだす。尼崎の駅前の公園でパンをかじりながら、友人に連絡をとってしまう。どうしても、巨大な油絵でわらったとか草原を駆けずり回る犬のような少年たちの見える文字で、笑ったと、伝えたくなるも、ようよう考えると、木曜やしムリなん決まってるやんと思い(彼は会社員なので、土日か水曜が好ましいと思われる)、なんとなく絶望。とはいえ、もしゴー・サインが出たならアレやしなと思い、電車に乗り、梅田へ向かう。この計画性のなさ。こういう相手のことを想像するみたいなんがでけんまま老いてもなぁ、なんて思いつつ、ぼんやりと中づり広告を見ていると、キャンドルナイト、なるものが目に入る。
わたしは、皆さんが思っている以上にこういうパステル調だったりクレヨンで書いた文字のような物事が好きです。「ようこそ。素敵なナイトだ」「あかりを消す夜、素直が灯る」と謳っているが、前者は「ナイト」とカタカナにする理由がキャンドルナイトにかけてるから、にしても、そもそも「素敵な」という言葉は曖昧なものだから、なんとなく弱い気がするし、後者はまったくもって語呂の悪い、韻もきれいでない、あと「灯」の字で統一して、なにかうまいこといえばいいのに何も言えていない、結果、なにものこらないコピー、だなんて、老婆心から口をはさんでしまうのだけれども、それでも、いきたい。キャンドル抱いてるキャラクターもかわいい。
いきたい、と思っていた。それも、毎年。この広告をみるたびに、ことしももうそんな時期か、なんて思うものです。とはいえ広告で知るくらいの由なので、予定をいまさらあけるのもなぁ、みたいな気持ちであるのも事実で、現にことしは7日開催とのことで、
気づけば梅田におり、フラフラとする。夜がすこしはじまったかな、という頃合い、今日はムリやわー、という返信をもらい、そうやんな、と思う。まぁでも、せっかくだしトリスのハイボールは飲みたい。コンビニで買う。なんとなく町なかが蝋燭めいてるなと思っていると、中づりでみた、キャンドルナイト、のプレイベントであることを知る。とはいえ、老いからのひねくれで、空き缶片手にそこそこに愉しんでいるくせに、なぜに仏頂面、さまよっていると、ラジオのイベントで秦基博に遭遇。でももう老いていますから、写真をバシバシとったりすることはなく、内心の興奮を収めつつ、コーヒー飲んで帰ります。耄碌の夜半に、
by uncowakigerecords
| 2017-06-07 12:00
| ブログ