2017年 08月 02日
サイゼで明太スパ×2(ツー)のあたらしき道とひかり |
わたしはムシャクシャする癖があり、ほんましんどい、消えてなくなりたい、だれでもよかった、みたいな状態になるのですが、そういうときサイゼリアにいって、明太子のスパゲッティをふた皿たのむ、もうサラダとかドリアとかワインとかなしで、とにかく食うことに徹し、あのまがまがしいピンクいろをこれでもかと体内に摂りいれることで自らを傷めつけ、やっぱ生きたい、生きなければならないと思う、くちのなか、ドロドロとし、たくさんのプリン体がはじけ、あのサイゼリア店内独特の臭いやプラスチックな内装もあいまって、生きなければならないとつよく確認する。
ふた皿といいつつ、ひと皿たのんでからもうひと皿頼むというのがミソで、追加オーダー方式を採用することで、こいつめっちゃ食う客やな、おんなじもん頼むなや、一回で頼めや、と思われるだろうし、「恥」の気持ちも回復し、理性や社会性ももどってくる。サイゼリアで明太スパをふた皿たのむということは、こうして、にんげんになるまでのドキュメントなのですが、
ここ数日のわたしというのもにんげんではなくなっており、夏バテすごく、主食をアイスとしていた。朝おきてアイス、それから朝食をとり、昼前に炊飯器をのぞくと、きのうののこりのご飯があるものの、どう考えてもこれでは足りない量、2.3口分なので、足りない量を補う量のアイスを食べる。昼から夜にかけての仕事なのですが、こんな呈なので、お弁当なんてまるで作っておらず、コンビニでパンをふたつ買って夜食がわりの弁当とする。退勤し、帰宅し、アイスを茶碗によそい、ダラダラとYouTubeを見ていて気づいていたら朝で、またアイスをたべる、
こんな生活ですから明治のファミリアという2リットルの家庭用アイスが一瞬でなくなる。そうなると、ファミリアを買うというタスクが必然的にうまれるわけで、仕事かえりに立ち寄れるスーパーというのが家からてんで離れたところにあるので、仕事がおわって、とお回りして歩いて、スーパーに寄って、山道あがってかえるというルートがうまれ、必然的にタフさを必要とされ、しかもアイスはすぐに溶けるのでモタモタしてられない。スピード感がカギをにぎる。というわけで、力ふりしぼってでも帰宅するのがやっとで、またアイスをよそって、
そんな生活を二週間弱つづけていると、仕事がえりの終バスに乗り、アタマがまったくうごかない自分に気づく、糖分と乳製品をとっているからエネルギー的には大丈夫、とか考えていたじぶんを呪う。うつろな目で窓にもたれている自分がうつり、もうアカン、こんな生活から抜け出したい、もうこんな生活やめだ、自分をかえたい、かわるなら今やないかと思い、しかしそのやりかたがわからない。と、ひらめいたのがサイゼで明太スパ×2、なのですが、サイゼは平然として閉まっている夜分。自傷行為できない!しかしとにかく、炭水化物と塩っけの多いものを大量に摂取すればいいようにも思う。そこで家のちかくのコンビニに立ち寄りコンビニ弁当を買うことを思いたち、
もよりのバス停を見おくる。そこでハタと気づく。そもそもわたしの家のちかくにコンビニなんてあったろうか。わたしの家はだいぶ山の手にあり、まわりは住宅ばかり。家の一番ちかくにあったコンビニも去年店をとじた。どこかにあるのはあるのだろうけれど、あったとしても必然的にあるいてかえらなくてはならない、こんなヘタヘタな状態でムシャクシャもしているし、エネルギー切れの状態で、わたしは、はたして歩いてかえれるのだろうか。
なんてったって、坂がおおい。ゆるやかとはいえ、途中で発狂して壁にアタマをぶつけたりツメがはがれるまでひっかいたりしないだろうか、川もおおいし、とうとつに思い立って、発狂し、やっと手にしたコンビニ弁当を川に投げつけ、自分の行為のおろかさを知り、川にとびこんで米粒ひとつひとつを掬うようなことを思い立ち、するのではなかろうか。いまの自分なら、し兼ねないのであって、バスのクーラーのかわいた音がして、
コンビニ事情にあかるくないのにはわれながらの理由があり、というのが、わたしはサイゼで明太スパを二皿、しかも一皿たのんだあとにもう一皿たのむという追加オーダー方式を毎ど採用しているにもかかわらず、コンビニでものを買うことを恥じている。いつも、ためらってしまう。まわりにスーパーがないか必ず確認し、最後の手段としてコンビニを選択する。コンビニでものを買うというのはなんとなく、コイツ用意周到じゃないな、と思われてしまうんじゃないかと、心配になる。コンビニとは、あくまで最終手段であるべきだと思っているので、だから、コンビニで弁当もってならんでましたよね、と言われると、わたしには、メシつくれないくらいギリギリの生活なんですか、とも、ひびく。まわりで誰がどんな状況の自分を見ているのかわからないので、なるたけ避けたい。お茶くらいならイケるとはいえ結構ギリで、弁当なんてもってのほか。買うとしたらおにぎりで済ます、
おにぎりと弁当というのはじぶんのなかでまったく違っており、おにぎりは小腹をみたし、弁当はガッツリという感じ。つまりコンビニで弁当を買うということは、メシのこと、今日は捨てたなと思われてそうで、怖いのである。いや、べつに、ほかのひとがしているのは、全然問題のない行為であって、せんかたない事情もあるだろう、と思案するのだけれど、自分に関して言えば、そうなってはいけないというか、コンビニでガッツリ食欲を満たすじぶんという図がまったく想像できないし、したくないというのが本音で、それならほんのすこし食欲を満たすくらいでええわい、と相成るわけである、
そんな具合ですから、コンビニに寄るなんてのはマレなのです。まして家の近所のコンビニなんてはずかしくてたまらない。家の近所のコンビニによる用事なんて、必然的に存在しえないのである。しかし、存在してしまった。わたしの生活のなかで起立し、み胸をひらいて待ち構えているのであって、
ローソンローソン、ローソン、とひとりごちているにしても、ほんとうにローソンがあるんだろうか、ローソンはあった気がする、まえに見かけたことがある気がする、くらいのもので、そういえばむかし教育番組で、伝説のコンビニ、という曲があり、それがすごく好きだった、おりしもコンビニ普及の頃あい、伝説のコンビニ、さがしにいこう、とうたわれ、ひろい世界にただ一軒、とうたうと、リズムが早急になり、知恵の缶詰や奇跡のおでんを売っている、らしく、もうその伝説感がすごく、コンビニの伝説なのか伝説的なコンビニなのか、その境界が不明瞭になるあたりがさらに伝説をはらんでいるなと子どもながらに「言葉ってすごい!」と震えたのですが、ローソンであり、家の近所であり、単純にまわりが見えていないだけであって、
とおくのほうに青い看板がみえる、あった!バスをおり、藁をもすがるおもいで弁当コーナーへと勇み足。ああ弁当、これがコンビニ弁当か、と人生ではじめてコンビニ弁当という選択肢がうまれる、
人生人生、辻仁成、とひとりであらたな選択肢が生まれたことの感嘆をあらわし、コンビニ弁当のまえにたちよると、なんとなく思っていたよりも小賢しい選択しばかりで、健康に気を使っていたりするものがおおい、何種目の素材とか野菜とかひじきとか、いらんいらん!そんなもの気にするくらいならコンビニなんか寄るな!自炊しろ!もっとのど元チンポがふさぐくらいのよくどおしさとなにかの喪失のかわりにこれでもかというエネルギーの発達を感じるものこそがコンビニ弁当だろう、それが極意ってもんだろう?!みたいな気持ちになり、といってもこれは勝手な想像なのでほんとウンコチンチンな考えとはいえ、まぁでも、おおまか当たってるだろうと正当化し、
ご飯の量がすくない。明太スパ・ツーで最大重要事項は、なんといっても炭水化物を大量に摂取するという罪の意識が最高なのですが、こんな量ではみたされない、すると、大盛り、と書かれているものをみつけ、それはチキンタルタル南蛮、とごはんだけで、ストイックさ、漬物が添えられているけれど、もうどうぞどうぞ、我々は捨ててください、というくらい謙虚な量で、タルタルソースのかかった鶏肉と白米しか目に入らない。大盛りとはいえ、たかが痴れた量ですけれども、そのストイックさに惹かれ、大盛りチキンタルタル南蛮弁当をかかえる、
しかしそこでより罪を犯したい気持ちがしてき、このサイズはいうても、そんな大したサイズではないのだし、きっとみたされない。もっとよくどおしくものを摂りたい、
カップ・ラーメンコーナーを拝見。種類を精査するにしても、あまり関心がないぶん、感心もせず、のべつまくなしの情報にも、ヘー、ラーメンね、くらいにしか思えない、あんなにすごいフォント、巨大な色味のラベルとはいえ。まったくアタマにはいらない。結局となりのパスタコーナーに足をすすめ、やっぱり、明太スパかな、と探し、見つけだす。クノールのスープDELIというシリーズの明太版があり、豆乳仕立て。スープスパ方式ですが、これはわたしの好きな明太感のあるもので、カゴのなかへ。青のりもかかってて、すきです。
レジをならんでいると、Lチキ・ホットが目に入る。ホットというのはスパイシーという意味のホットで、たしかにチキンタルタル南蛮や明太スープスパではこのスパイシーさは補われないものだ、このしょっぱさと脂っこさは何事にもかえがたい。これもほしい、
じぶんの番になり、品物を提出し、Lチキ・ホットを頼もうとすると店員さんが、お箸とスプーン、1膳ずつでよろしいですかという。家のお箸を使おうと思っていたし、わたしは、あらゆる味がまざりあうのがとても好きなので、たとえば取り皿も正直ひとつでいいタイプの人間で、そのひとつの取り皿に食べるものすべてをよそい、食べたものの残していったかすかな油分やからまっていたものや、コロモも含めて、のこっていて、次にお皿にあがるものとからまり、味のアクセントになる、そのときそのときでしか成立しない味を堪能するのが好きなひとなので、正直、おはし1膳でいい、弁当もスープスパもおんなじ箸で食べますんで、というものなのですが、こうもジャンキーなアタマとそれに見合う食事を済ますとならば、食事の哲学とかエコとか、ほんまどうでもええのであり、くわえて見栄もあったのでしょうか、恋人もいないのに、それぞれ2膳ずつで、となぜか口をついてしまい、店員さんが黙って2膳ずついれていく、
なんで2膳ずついれていくんや、なんでやとぼんやりしていて、自分がそう口をついたからだよと気づくのに一瞬の間があり、ひらめきに似た十字架を背おう。なんか自分だけ悪モンみたいやないか、悪いのはそもそも日本の夏がこないに暑いからちゃうんかいや、ましてクーラーの電気代が高いからアイスを主食にしてなんとか「涼」をとり、結果こうして2週間が尽きたとき、アタマおもく、けだるく、命を確かめるようにわけわからん食欲がみなぎり、それでも生きたいと、炭水化物と塩っけがほしいのであって、別に俺、悪ないよな、そもそもエコとかぜんぶ嘘じゃ!無駄遣い最高!地球死ね!俺だけを防衛しろ!という気持ちになり、気づけばLチキ・ホットだけでなく、すみません、三元豚ロース串もひとつくださいとお願いしていて、
揚々と店をでる。あんなに危惧していた帰り道もまったく難なく、むしろ早歩きで、わたしは割と速足だと思うのですが、開放感からか、それでも1.5倍の速度をこの時たたえていたと思うし、あまつさえ、その速度を保ちつつLチキ・ホットと三元豚ロース串を摂り、歩きながら口の端から鳥皮のもらす油分をたらし、生命が回復していくのを実感し、どんなマラソンランナーだよ。
急こう配の坂をあがり、階段をダッシュでかけ、家にはいり、湯をわかし、パスタをもどし、その間にレンジにかけることなく弁当を勢いのまま胃へ流し込む、すこし冷たいので味もうすいように思うし、口の中がパサパサするのだけど、とにかく無性に、なんでもいいから胃に流し込みたいという気持ちで、するとタルタルチキン南蛮の下に心ばかりのナポリタンがおり、さらなる炭水化物に興奮し、うまいうまいと頬ばり、パサパサのケチャップソースを口のまわりにひろげ、食べ終わったころにスープスパに着手、流し込み、さきのL鳥と豚串の油としょっぱさも相まって、じしんの熱量のたかぶりも感じ、クーラーをつけ、ガンガンにきかせ、いつもより1.2℃低い温度に設定し、寝ころび、するといままで食ったもの、鳥、豚、タルタルと鳥、スープのからまったしょっぱいパスタが胃のなかにあるのを確かめ、呼吸のたびに上下する腹をつきうごかしているような、さっかくを覚え、うごけないから、YouTubeをみていて、あしたきっと、吹き出物すごいやろなと、おもったりして、
翌あさ、たしかに吹き出物もあったけれど1個におさまったし、カロリーのすごみ、熱量という名のすごみ、体の立ち直りすごく、挽回し、さっそく豚肉ともやしの梅干し煮なんてヘルシーメニューをつくったりし、その次の日は、山なんてのぼっちゃったりして、健康健全、お茶目にかわいく、なが生きしたい、
by uncowakigerecords
| 2017-08-02 12:00
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